ぼっち

コロナ禍になってからというもの外に出歩くということがとんとなくなった(実際にはその前からまったく外を出歩くということに意味を見いだせなくなって出不精になっていたのだが、コロナ禍になってから更にそれが加速した)。

あとやっぱり感染が怖いので昔の友人との飲み会や外出なんてものにも恐怖を感じて頭を縦に振ることが少なくなった。今は感染者はまだ少ないままだが、新規の変異株のこともあるし、さらに悪いことに私自身も予防を怖くて受けられなかったので他の人に合うことがめっぽう億劫になってきている。

オンライン飲み会なら全く問題なく顔を出せるのだが対面での付き合いなどは全く恐怖心を覚えていて、参加したいかと聞かれるとそのまま口をつぐんで何も言えなくなってしまう。通信端末越しにそれを聞かれるとそのまま何も答えずに放置してしまう形になってしまっているからたちが悪い。

いやまぁ、その前からなんとなく昔の友人たちからの飲み会には参加しないようになってきていて多分心の中ではあまり良い印象を持たれてることはないんだろうなと思っていたのだが。。。

まぁそういう小さなことが重なっていった結果、昔は仲良くしていた先輩から全く声がかかることもなくなって、コミュニケーションツール上では一言二言やりとりがあるもののそのあとの会話は全く続かず終わることが常になっている。まぁ昔あんなに仲良くしてたのが最近になって急に冷たくなったら嫌にもなるだろう、仕方のないことだ。仕方のないことだということはわかっているのだが、明らかに私のときは口数が少ないのに他の人とのやりとりとなるとメッセージ数が明らかに違うのを見てしまうと、私はこのコミュニティに属していてよい人間なのかどうかを疑ってしまう。できることならこのコミュニティ上のすべての人の心の中を覗いて、全員が私のことをあまり良く思っていないのなら即刻そのコミュニティから抜けたほうが互いのためになるのではないかと思ってしまう自分がいる。

しかし実際にはそんなことは不可能なのでそのまま不毛な気持ちをもったまま自分以外のコミュニティメンバーのやりとりを見ているしかないのだが、昔仲良くしていた人が明らかに私との意思疎通には苦労していそうで他の人にはなんのストレスもなさそうにやり取りをしているのを見ていると、やはり私は何か人間として欠けている部分があったのだろうと痛感させられる。

どこをどうまかりまちがったらこんなことになってしまったんだろうかと考えると、思い当たる節はたくさんある。自分の人生はいつもそうだった。大事な部分で選択肢を間違えて悪い方向に進んでいく。成功した試しがない。

何が悪いんだろうかと考えてもわかる試しもないし、指摘してくれる友達もいるはずもないので、結局ほっておくしかないのだが。

もう正直に聞いてしまったほうが楽なんじゃないだろうかと思ってしまうことはよくある。「もしかして僕ってここにいたら皆さんの空気を悪くしてますか?もし僕がここにいることで皆さんのコミュニケーションを阻害しているなら僕は即刻出ていこうかと思います。皆さんの邪魔になっているままでは迷惑だろうと思いますから」、とか。まぁそんなことしてみると変な爆弾を投げることになって後々禍根になっても面倒なのでやりたくないが。。。

思えばこんなことばかりだ。会社でも、あるいは友人の知り合いとの会話でも、なぜか私と会話をした人たちは私を変な目で見ている気がする。なんだろう、もしかしてきょどったりしているんだろうか。。。それとも話が面白くないし、何を考えてるかわからないから心理的圧迫感でも与えているんだろうか。まぁ、会話が下手くそなのはあるかもしれない。前に先輩にそんなことを言われた。

会話が下手くそなのはそのとおりだと思う。まず初めてあった相手に話ができない。何を話さなければいけないのかもわからない。というかまず相手に興味がない。相手の出身や仕事などの情報はなんとなく頭に入れておくことはできるが、そこから何を聞けばいいのかがわからなくなってくる。というより会話の起点を作ったはいいもののそこから続けて会話をしていくと途中でだんだん質問することがなくなってきて最後には「ああ、なるほど・・・」となんとも言えない空気感で終わってしまう。なんとも相手に興味がないのが丸わかりじゃないか。適当に質問している時点でそうなのかもしれないけど。

まぁ相手に興味がないのだから相手も自分に興味をなくしても仕方ないだろうというふうに思えてきた。でも愛に頑張って興味を持って話をしたとしても期待通りの反応が返ってくるとは限らないのだ。そういうのは人間的に魅力がある人にしか返ってこないんだろうと思う。自分はおそらくそういう人間的魅力に欠けた人間なんだろう。どうすればいいというのか。

かと言って人間的に良くなろうと努力すると今度は心が壊れてしまいそうになる。これは経験的な話だが。何かいい人を演じようとすれば演じようとするほど頭の中で「これは自分じゃない」と叫ぶ人がいるのだ。まるで第三者が自分の体を操っていてそれを頭の中の本来の自分が見ているだけという感覚になるのだ。それがとても気持ちが悪かったのを覚えている。

あのままいったらどうなっていたんだろう。良い方向に行っていたんだろうか。

なんにせよ、一人で考えていてもしょうがないのに一人で考えるしかないのだろう。それがぼっちの宿命なんだろう。

誰だこんな面白くもないろくでもない話を作ったのは、と文句をたれてもそれは他でもない自分自身の積み重ねが招いた結果なのだ。

Kali linux 日本語入力について

Kali linux 2020.03にiBus-anthyを入れたときの備忘録

Virtual Box用のKali linux 2020.03 のイメージをインストールした後に kali linux を起動すると英語入力しかできないようになっていたので日本語入力をできるようにした。最初はなぜか

sudo apt install ibus-anthy

としても

E : Unable to locate package ibus-anthy

と出てきて入れることができなかったので、こちらのブログを参考にして

sudo apt -y update

としてOSのアップデートを適用するとインストールができるようになった。

なので最初にアップデートをしておくほうがいいようだ。

なので、

  1. sudo apt -y update を実施する
  2. sudo apt install ibus-anthy

とするとちゃんと ibus-anthy がインストールされる。

About an anime

友人はよくアニメをチェックしており面白かったものなどを話してくれたりするので私も釣られて見たりするのだが、最近はグローバリズムが進んでいるせいなのか外国キャラがよく出てくるなと思う。(そもそも世界観が違うものが多いので外国も何もないのかもしれないが。出てくる人物の骨格が明らかに日本人の骨格ではないので。)

その中で最近の友人のお気に入りはとある筋肉トレーニング紹介アニメだった。ギャグアニメなので頭を空っぽにして見れる分にはよかったのだがトレーニングとしてはどうなのかと思う部分や英題に関して思うところがあった。

これらの話の前にあらすじだけでも話しておこうと思う。

お話としてはとある女子高生が友人から太っていることを指摘されてショックを受け痩せようと決意するが、自分でトレーニングをしても三日坊主で終わってしまうためどうせならと最近近くにできたジムに通い始めるというところから始まる。
彼女の目標としてはとりあえず夏までに浜辺で素敵な体を披露できるくらいの体にはなろうと掲げていた。そこでさっそくイケメンのジムのお兄さんに教えてもらいながら痩せるためのトレーニングをするわけだが、私はここで困惑してしまった。というのもアニメはいきなり筋トレをする部分から入り始めたからである。


私の知識の中ではまず痩せるというところを目指すのであれば最初に体脂肪を燃やすためのトレーニング、いわゆる有酸素運動やインターバルトレーニングなど、をやるものかと思っていたからだ。筋トレ自体には体脂肪を減らす効果はあまり無いため、筋トレ導入初期はあまり見た目は変わらず、痩せたいという人としてはモチベーションが下がるような気がした。もちろん筋トレを続けていれば徐々に筋肉量が増えて体脂肪の燃焼率が増えるため痩せやすい体になり結果的に痩せていくのだろうが、太っている最初はそうではないので早めに痩せたいと思うのであればまずは体脂肪を落とすトレーニングである程度体脂肪を落としてから筋トレを行った方が効果的なんじゃなかろうかと思ってしまった。まぁ趣旨としては筋トレを広めるという名目でやってるはずなので布教という観点で言えばまったく間違ってはいないのだろうが。

 

さて、もう一方の気になった部分はこの作品の英題についてである。
気づいている方がいるのかは分からないがこの作品には英題がついている。
英題には "How heavy are the dumbbells you lift?" と書いてある。
ここでも私は困惑した。本来の題名とニュアンスが若干違うように感じたからである。
題名には「ダンベル何キロ持てる?」と書いてある。この日本語の解釈は人によって数多あるだろうが私の解釈は「最高でダンベル何キロ持てますか?」というニュアンスだった。そのため英題を見たときには「ん?」と疑問符を浮かべることになったのである。
というのも英題をそのまま翻訳すると以下の二つのどちらかの意味になるためである。

  1. 「今この瞬間上げているダンベルの重さはいくつですか?」
  2. 「(いつもルーチンワークとして行っているトレーニングで)上げているダンベルの重さは幾つですか?」

現在形の意味的に言えばこの2つくらいの解釈しかないと思う。しかし、これらの解釈は私が想定していた日本語の題名の意味とはまったく違う物になってしまっている。そのため私は困惑したのである。題名も英題も両方ともあっているのだと考えるのであれば、題名の「ダンベル何キロ持てる?」も上の翻訳のどちらかの意味になっているのだろうが。
しかし、日本語で「ダンベル何キロ持てる?」と聞かれて一般的な日本の方の何人がそれを一発で「いつものルーチンワークの重さを聞いてるんだな」とかましてや「今この瞬間のダンベルの重さを聞いてるんだな」と解釈するのだろうか?
私自身は「何キロ持てるのか?」という可能性の話をしていると解釈してしまうので、そのまま最高値をXとして「Xキロまでなら」と答えてしまうと思う。
このように、少なくとも私のような解釈をしてしまう人がいるという意味では、この題名と英題の両方の存在には何かミスマッチが起こっているように思う。せめてどちらかをもう少しわかりやすい用に変更できればいいのだが。
題名を変えるなら「ダンベル何キロ使う?」とか「ダンベル何キロ(いつも)持ってる?」がもう少し元の英題に近い意味になっていると思うし、逆に英題を変えるなら "How heavy dumbbells can you lift?" とかもっと突っ込んで "What's the max weight of the dumbbells you can lift?" などにすれば元の題名に近いものになると思う。最高値さえ分かれば何キロ持てるかは分かると思うからである。

まぁこんな細かいことを気にして見るようなアニメではないというのはもっともなのだが、ずっと気になったので書き起こした。いや、それも本心ではないかもしれない。おそらくただ時がたち老いゆくだけの人生の中でせめてもの何かを残したいために鬼の首をとったように書いているだけなのかもしれない。

全くちゃちい小市民である。

 

Myself in this world...

最近は僕という存在が嫌になってきている。
僕という存在があることでまわりの人たちが迷惑を被っていることがあるんじゃないかと思うと早く消えてなくなりたくなる。まぁもうそんな感じの状態にはあるのだけれど。

 

社会に僕の居場所はなくなりつつある。それがよく分かる。どのコミュニティに属していても僕の存在はないようなものになってきているし、そうして人は消えていくんだろうなと思う。
でもそんな状態にはなりたくないから時々発言などをしてみるけどそれも見られなかったかのように無視されることも多くて、ああ僕という人間はそんなに付き合い辛い人なのかと、そう思うとすごく消えたくなるし、死にたいと思う。特に社会の役に立っているわけでもないし。僕の代わりなんていくらでもいる。

 

もっとうまく立ち回ることができれば良いのだけれど、そういうのが分からないからどういう行動をしたらいいのかも分からない。というより人間関係が面倒くさくなってきているのかもしれない。誰かと人付き合いをしていくということが面倒になってきている気がする。
要因の一つとしておそらく自分の失敗とか無知を晒すのが怖くなってきているのというのがある気がする。自分の失敗で変な空気になったり、まわりが迷惑を被るのが嫌なのだ。そういうことをすると自分はなんと情けなく役立たずな人間なんだろうと再確認させられる。そうすると人付き合いが難しくなる。
前に比べて知識がなくなったというか頭の回転が悪くなったというのもあるかもしれない。前はまだそういうのがあった分発言するのにまだ自信があった。今はもう見る影もないが。自分の興味あるところを勉強しようと思いインターネットで情報を調べたりするのだが、ある程度いくと分からない部分だらけになってしまい結局分からなくなってしまう。そのまま理解することを挫折する。

 

しかしこのままでもいけないなと思い(自分としては)勇気を出して色々発言をしてみるのだがもうすでにまわりの人間からはおそらくあんまり人付き合いしたくない人認定されているのでどうにもならない。自業自得である。分かっている。でもせめて僕の勇気を汲み取って欲しかった。。そう思うのは自己中心的なんだろうか。。

 

どうすればいいのだろう。。自信を取り戻すためにひたすら勉強するしかないのか、それとも自分の感情が何を感じようがひたすら傷つきながら人と付き合っていけばいいのか。僕の感情など壊れてもいいから。僕にはよく分からない。

考えることも疲れてきてしまった。